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<概要>
 米国は核兵器を独占して戦後世界に支配力をも持つつもりであったが、ソ連がその夢を砕き、間もなくイギリスも独自に原子力開発を進めようとしていた。アメリカはそこで政策の変更を打ち出す必要があった。それは原子力の平和利用の面で世界のリーダーシップをとることであった。アイゼンハワー大統領が国連総会で「平和のための原子力」政策を明かにし、アメリカは全力を挙げてこれに取り組むことを世界に公言した。それまで明確な動力炉開発計画をもたなかった原子力委員会は、開発が進んでいた潜水艦用の動力炉を、陸上の発電炉として転用することを決定、米国として最初の商業用発電炉として完成させた。
<更新年月>
1999年07月   (本データは原則として更新対象外とします。)

<本文>
1.平和のための原子力
 トルーマン大統領が政権にあった1952年まで、連邦政府と原子力委員会(AEC)は核兵器を中心とする軍拡競争に精一杯であった。続くアイゼンハワー大統領は原子力政策の方向を大きく変え、原子力の平和利用を中心に据えるところとなった。彼は「平和のための原子力」(Atoms for Peace)政策を掲げて、産業界に原子力発電に向けて重い腰を上げさせることとした。
 アメリカにおいて、原子力発電用を含む動力炉の開発に対する期待が芽生えるのは、1950年以降である。アメリカ海軍は、1950年、潜水艦推進用動力炉の開発計画を原子力委員会の重点計画として認めさせ、その開発に乗り出した。計画の中心人物としてリコバー提督が全体の指揮をとるようになって、開発が急速に展開するようになった。炉型を加圧水型軽水炉PWR)と定め、1952年からの早期実現をねらって民間企業を引きこみ、ウエスチングハウス(WH)社に開発を担当させることとした。
 その頃になっても原子力委員会自体が、将来の動力炉がどのようなものであるべきかについて、確固たる方針をもっていたわけではない。高速増殖炉計画、ガス冷却炉計画、加圧水型軽水炉計画など、国立研究所の科学者達のまとまりのない開発実験の成果に左右されていた。
 1951年12月、イリノイ州アルゴンヌ国立研究所(ANL)の科学者達は、アイダホ州アイダホ・フォ−ルズの国立原子炉試験場(NRTS)で小型の高速増殖実験炉(EBR-1;電気出力100kW)を完成させ、小規模ながら原子力発電に成功した。砂漠の中に原子力の灯がともったというニュースは、大歓迎で受け入れられた。時代が原子力発電炉(以下「発電炉」という。)の開発に向かって動き始めた。原子力委員会もやっと発電炉の開発に積極的になり、産業界に対して指導的立場を取るようになった。
 アイゼンハワー大統領は、原子力委員会に対して、艦艇用動力炉開発計画の推進とともに発電炉開発計画にも積極的に取り組ませることとした。原子力委員会もこれに応じて、原子力の平和利用の環境を整えるために、1946年に定められた原子力法の改定に着手した。これによって民間企業を発電炉の開発計画に参加させることができると考えたのであった。
 アメリカの当時の電力予測では、世紀中の電力の伸びは化石燃料だけでは賄えず、原子力の導入は欠かせないという状況もあった。さらに、既に1947年にイギリスとして最初の実験用原子炉(GLEEP)を臨界にさせたイギリスが、1956年完成を目標に発電炉の開発を進めているという事情もあった。
 このようにして、アメリカでは自国の原子力政策を根本的に見直すこととなり、アイゼンハワー大統領自身が1953年12月8日の国連総会において、「平和のための原子力」政策を発表するところとなった。
2.原子力発電の開発に拍車
 1953年8月にソ連が水爆の実験に成功すると、原子力委員会はソ連の脅威を逆手にとって、平和利用を推進するリーダーとしてのアメリカを宣伝することとした。原子力発電の開発が、対ソ軍拡と同じように有意義であることを主張し、さらに原子力発電の経済性は、化石燃料のそれに比べ、差し当たり有利なものでないことを認めた上で、政府、民間企業の共同事業として、政府の補助金を支出することを決めた。
 1954年9月、アイゼンハワー大統領は、はるかコロラド州デンバーから、遠隔装置でペンシルベニア州のシッピングポート原子力発電用サイトのブルトーザーを動かして、最初の原子力発電所(電気出力100MW)の起工式を行った。原子炉の製作を担当したのは、ウエスチングハウス社であった。それからわずか3年3カ月後発電所は稼働し、ペンシルバニア州ピッツバーグの電力会社デューケイン・ライト社は、原子炉からの電力を自社の電力網に送り込んだ。
 アメリカは、とにかくイギリスに後れを取ることなく、原子力の平和利用を推進すべきであるとの一致した確認のもとに、潜水艦用の加圧水型原子炉(PWR)を転用し陸上の発電用原子炉(発電炉)として完成を急いだ。
 一方アルゴンヌ国立研究所の科学者達が、もう一つの軽水炉である沸騰水型原子炉BWR)の理論的研究に従事していた。陸上設定の発電用原子炉として、原子炉冷却水が原子炉容器内で沸騰する原子炉でも安全に運転でき、その上、蒸気発生器を省略できること等から系統が簡素化でき、より経済的な性能を期待できるとの見通しからである。
 発電炉でウエスチングハウス社に後れを取ったゼネラルエレクトリック(GE)社は、このBWRによって独自の新しい技術を開発しようとした。同社は政府の補助を断って、カリフォルニア州のサンノゼの近くにBWRの開発を目的にしたバレシトス研究所を建設、ライジングサン計画と名づけた開発計画を実施して、BWR(VBWR)を原型炉として完成させた。
 このようにして、PWRとBWRは、アメリカの重電機メーカー2社の主力商品として世界中に売り込まれ、軽水炉時代を迎えることになった。
<関連タイトル>
加圧水型炉(PWR)開発の発端 (16-03-01-05)
WH社によるPWR原子力発電所の開発 (16-03-01-06)
沸騰水型炉(BWR)の着想と初期の開発 (16-03-01-07)
GE社によるBWR原子力発電所の開発 (16-03-01-08)

<参考文献>
(1) USAEC REPORTS, 1950−65
(2) A HISTORY OF USAEC, VOL.II,WASH1215
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