<大項目> 放射線影響と放射線防護
<中項目> 原子力施設による健康影響
<小項目> 放射線事故
<タイトル>
旧ソ連における南ウラル核兵器工場の放射線事故(キシュテム事故など) (09-03-02-07)

<概要>
 南ウラル核兵器生産コンビナートにおいて、高レベルの放射性廃液による3つの汚染事故が1950年から1967年にわたって発生し、被ばく者の健康調査を行っていることが明らかになった。一つは、キシュテム事故と称する再処理施設で起きた高レベルの放射性廃液の入った液体廃棄物貯蔵タンクの爆発事故、つぎは、液体放射性廃棄物の開放貯蔵所として使用していたカラチャイ湖の沈泥に沈着していた放射性物質の再浮遊による汚染事故、そして、これらの事故にさかのぼって、核兵器生産コンビナートの稼動初期には再処理技術の完成度が低かったため、高レベル液体廃棄物をテチャ川などに投棄していたことによる下流地域の住民の被ばく事故である。
<更新年月>
1998年03月   (本データは原則として更新対象外とします。)

<本文>
1.EURT事故(キシュテム事故)
(1)概要
 1957年9月29日に、南ウラルのチェリャビンスク−65(チェリャビンスク市の北北西71km、キシュテムの東15kmに位置するマヤク核兵器生産コンビナート)の再処理施設で、高レベルの硝酸アセテート廃液の入った液体廃棄物貯蔵タンクの冷却系統が故障したために、加熱による化学的な爆発がおこり、タンク内の核種7.4E17Bq(2,000万キュリー)のうち、約9割が施設とその周囲に、約1割にあたる7.4E16Bq(200万キュリー)が環境中に放出され、チェリャビンスク州、スヴェルドロフスク州、チュメニ州などのテチャ川の下流の町を300kmにわたり汚染した。このため34,000人が被ばくしたといわれる。これがいわゆる東ウラル放射能事故(East Urals Radioactive Trace ;EURT)、南ウラルの核災害(ウラル核惨事)、あるいはキシュテム事故(キシュチム事故)といわれるものである。 図1 にこの事故によるストロンチウム−90の環境汚染分布を示す。また、参考までに南ウラル地方およびチェリャビンスク市などの位置関係を 図2 に示す。
 タンクから放出された放射能の内訳で主要なものは、セリウム144+プラセオジム144(66%)、ジルコニウム95+ニオブ95(24.9%)、ストロンチウム90+イットリウム90(5.4%)である。プルトニウムなどの超ウラン元素は痕跡程度であったとされる。
 チェリャビンスク地区の汚染は最もひどく、10,200人が避難した。公衆に対する安全基準は、7.4E14Bq/m2と設定された。事故後の1年間の被ばくの源は、ジルコニウム95やルテニウム106の短寿命放射性核種の物理的減衰によるものであり、5年後の土壌の汚染は、長寿命のストロンチウム90であった。事故発生初期に、この地域の外部放射線による線量率は、1.4mR/hであったが、現在、ストロンチウム90の土壌沈着からの線量率は、50nR/hに減少した。
 217居住地区の約27万人が、ストロンチウム90の37kBq/m2の汚染地域に住んでいた。再処理施設に近い3つの村の1,054人は、最も高い線量(骨髄に570mSv)を受けた。250日間汚染地域に住んでいた2,280人は、平均170mSvを、330〜370日間EURT事故区域に留まった7,300人は、600mSvの線量を受けた。勿論、事故後集団線量を減らすためにいろいろな措置がとられてはいる。
(2)一般公衆への健康影響
 この放射線事故により、最も汚染したキシュテム地区周辺の22ヶ村の1万人は、7〜670日の間に避難した。これらの人々は、40〜500mSvを被ばくしたと考えられるが、7,852人について、性別、年齢構成、悪性および他の全疾患に関連した死亡データおよび集団の生殖機能の変化が1987年まで調べられている。 表1 にEURT事故(キシュテム事故)による公衆の健康調査の結果を示す。これから分かるように、この地域や全ソ連の対照値と比較して、統計的に有意な差は認められなかった。ただし、グループ間の推定値には幾分違いがあるものもあり、年齢のような自然の原因や社会的経済的交絡因子の介在が指摘された。この疫学研究は第一段階のものであり、現時点では、被ばく集団の長期放射線影響を明確化できないことに関して結論は下せないとしている。
2.テチャ川への放射性物質の放出による被ばく事故
 キシュテム事故にさかのぼって、標記の汚染事故があったことが明らかになった。チェリャビンスク核兵器生産工場は、1948年に稼動を始めた。再処理施設でプルトニウムを分離したあとに発生する高レベルの放射性廃液を処理する技術が当時まだなかったので、中および高レベルの液体廃棄物を1949〜1956年にわたってテチャ、イセト、トボル川に捨てた。この期間の放射性廃棄物の量は、ベータ放射能が1.0E17Bq(275万キュリー)、約7,600万立方メートルであった。その99%は1950〜1951年に投棄されたもので、ストロンチウム90と89が20.4%、セシウム137が12.2%、微量希土類元素が26.8%、ルテニウム103と106が25.9%、ジルコニウム95とニオビウム95が13.6%であり、1日あたり平均1.6E14Bq(4,300キュリー)であった。同じく、1950〜1951年の間にガンマ線が最大線量に達した。メトリンスキ池で1時間あたり180〜5,400mR、テチャ川の土手で360mRであった。川から100mの通りでは10mR/hであったが、ところによっては10〜3,500mR/hあるいは3.5〜11mR/hであった。
 テチャ、イセト、トボル川周辺の住民124,000人は、外部被ばくとともに内部被ばくも受けた。特にテチャ川畔の28,000人は、この川を飲料水源としていたため高い被ばくを受けた。20居住地区から約7,500人が避難したが、35〜1,700mSvもの線量を被ばくした。中でもメトリノ村は被ばくがひどく、平均実効線量で1,700mSv、人によっては赤色骨髄に3,000〜4,000mSvもの線量を受けた。しかし、1951年後半にはテチャ川への放射性廃棄物の放出は減った。勿論、いろいろな防護措置がとられた。例えば、川にダムを造ったり、人々を避難させたり、井戸を掘ったりして飲料水を供給した。しかし、人々が避難するまでにすでにかなりの外部被ばくおよび内部被ばくを受けてしまっており、防御措置は完全といえるものではなかった。水中のストロンチウム90やセシウム137の濃度は減少したが、土壌や川底の堆積物からの二次的汚染も見られた。
3.カラチャイ湖からの放射性核種の飛散による被ばく事故
 1967年春、チェリャビンスク・コンビナートに隣接する、液体放射性廃棄物の開放貯蔵所としていたカラチャイ湖が干上がり、湖岸の沈泥に沈着していた放射性物質が乾燥して飛散したために、被ばくが起きた。主としてセシウム137とストロンチウム90であり、全放射能2.22E13Bq(600キュリー)が2,700km2に広がった。41,500人が3.7kBq/m2の汚染地域に住んでおり、カラチャイに最も近い地域の4,800人が外部被ばくで13mSv、離れたところの人で7mSvの被ばくを受けた。
4.おわりに
 テチャ川周辺の被ばくを受けたこれら住民の健康調査が1952年に開始された。1962年には、モスクワ生物物理研究所の第4支部がチェリャビンスクに設置され、ここで上記三つの放射線事故と被ばく者の長期観察が行われている。
<図/表>
表1 EURT事故(キシュテム事故)による公衆の健康調査
図1 キシュテム事故による環境汚染
図2 南ウラル地方;チェリャビンスク市およびトボル川

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<参考文献>
(1) 岩崎民子:被曝線量推定及び健康調査、放射線科学、37(12), 441-450(1994)
(2) W.Burkhart and A.M.Kellerer(ed.): Special Issue, Radiation Exposure in the Southern Urals,The Science of the Total Environment,Vol.142,p.1-126(1994)
(3) B.V.Nikipelov,G.N.Romanov,L.A.Buldakov,N.S.Babaev,Yu.B.Kholina and E.I Mikerin: Accident in the SouthernUrals on 29 Septcmber 1957,INPCIRC/368,IAEA,(1989),p.1-14
(4) 松岡 理:放射性物質の人体摂取障害の記録、日刊工業新聞社(1995),p.19-43, p.118-119
(5) 日本原子力学会「低線量放射線の影響と安全評価」研究専門委員会:原子力関係者のための放射線の健康影響用語集、日本原子力学会(1992)、p.13-10?13-12
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