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<概要>
 アメリカは、第二次世界大戦中、原爆を開発するためのマンハッタン計画のもとに、国内各所に軍用原子力施設(核兵器生産工場)を建設し原爆を製造し、1945年8月、広島と長崎に原爆を投下した。第二次世界大戦終了後も、1949年にソ連が原爆開発に成功し、また、1950年に朝鮮戦争が勃発したため、プルトニウムの増産に拍車がかかった。プルトニウム生産は1964年にピークを迎えたが、その後は核軍縮に向けての努力が始まり、プルトニウムの生産は順次縮小され、1991年にはプルトニウム生産炉の運転を完全に停止した。現在、アメリカでは、核兵器生産工場などからの放射能汚染が問題となっている。米科学アカデミーが調査したところ、これら工場の老朽化や管理体制の問題が明らかになり、工場周辺で放射能汚染が確認され、周辺住民の健康への影響が懸念されている。このため、これら核兵器開発の負の遺産である環境汚染を修復し、元の状態に戻す大規模な国家プロジェクトがDOE(エネルギー省)によって進められている。
<更新年月>
2001年12月   (本データは原則として更新対象外とします。)

<本文>
1.軍用原子力施設の建設と運転の歴史的経緯
1.1 ハンフォードのプルトニウム生産炉
 ワシントン州のハンフォードは、マンハッタン計画のもとにプルトニウムの生産地点に選ばれ、1943年当初、陸軍によって1,450平方km(茨城県の約1/4の広さ)の土地が接収された。1943年から45年にかけてプルトニウム生産炉3基(B、DおよびF炉)とプルトニウム分離回収プラント3施設(T、BおよびUプラント)が建設され、1945年7月16日のアラマゴードにおける最初の核実験や、1945年9月9日に長崎に投下された原爆ファットマンに使用されたプルトニウムを生産した。その後、ソ連が1949年8月29日にカザフ共和国のセミパラチンスク実験場でプルトニウム原爆実験に成功し、米国の核兵器独占体制が崩れたのを契機に、米ソの軍拡競争が激化し、米国はプルトニウム生産能力の大幅な拡充をはかった。その結果、1949年から64年にかけて、さらに6基のプルトニウム生産炉(H、DR、C、KE、KW、N炉)が次々と建設され合計9基となった。また、この間に新たな主要化学分離プラント3基(PFP、REDOX、PUREXプラント)が建設された。
1.2 サバンナリバーのプルトニウム生産炉
 1949年8月29年のソ連最初の原爆実験成功後、1950年1月には水爆開発の決定が下され、さらに同年6月に朝鮮戦争が勃発したため、プルトニウム増産に一層の拍車がかかり、またトリチウム生産の必要性も生じた。このため、1950年には第2の核開発の原料生産基地をサウス・カロライナ州サバンナリバーに建設することが決定した。こうして、サバンナリバーには1955年までにプルトニウム・トリチウム生産用重水炉5基(R炉、P炉、L炉、K炉、C炉)と2つの大型化学分離プラント(FおよびHキャニオン)が建設され、運転を開始した。
 こうしてプルトニウムの生産は1964年にピークを迎えたが、その後は核軍縮に向けての努力が始まり、生産は順次縮小され、ハンフォードでは1971年までにN炉以外のプルトニウム生産炉は全て運転を停止した。N炉は1988年初めまで運転を継続したが、その後は運転待機状態に入り、さらに1991年に完全に停止した。
1.3 ハンフォードの化学分離プラント
 ハンフォード化学分離プラントは、1952年にREDOXプラントが運転を開始し、1956年にPUREXプラントが運転を開始し、優れた運転性能を発揮するようになったので、第二次世界大戦中に建設され1944年に運転を開始したTプラントとBプラントは1956年に運転を停止した。PUREXプラントは1972年まで運転を継続した。その後約10年間休止し、1983年に運転を再開したが、ゴルバチョフ政権下で米ソの緊張緩和が急速に進む中、1990年に運転を停止した。また、第二次世界大戦中に建設されたUプラントは、完成前に終戦を迎えたため、しばらくコールド(使用済燃料を使用しない)の運転訓練施設として利用されていた。しかし、プルトニウムの増産で一時期、原料ウランが不足したため、1952年にTBP法によるウラン回収設備に改装され、廃液からのウランの大量回収に利用された。その後、現在に至るまで、この施設は汚染機器や廃棄物の保管施設として利用されている。1949年に完成したPFPプラント(Plutonium Finishing Plant)は、化学分離プラントで回収されたプルトニウムの硝酸塩を「ボタン」と呼ばれる扁平で円形の金属塊に転換する施設で、1951年に運転を開始し1989年に停止した。1956年に運転を停止したTプラントは、その後汚染機器の除染および固体廃棄物処理の施設に転用され今日に至っている。
2. 軍用原子力施設からの放射能汚染
 アメリカでは、軍用原子力施設(核兵器生産工場)などからの放射能汚染が問題となっている。米科学アカデミーが調査したところ、工場の老朽化や管理体制の問題が明らかになり、工場周辺で放射能汚染が確認された。そのため周辺住民の健康への影響が懸念されている。このため、これら核兵器開発の負の遺産である環境汚染地域を修復し、元の状態に戻す大規模な国家プロジェクトがDOE(エネルギー省)によって進められている。
 ハンフォードやサバンナリバー等の核兵器生産工場からの放射能汚染はかなり前から住民やマスコミの間では問題となっていたが、軍事機密に守られ、これまであまり本格的に調査されてこなかった。そこで、米議会の依頼で米科学アカデミーが1990年から1991年にかけて本格的に調査したところ、内部告発などを通じて、工場の老朽化や管理体制のずさんさからほとんどの工場周辺で放射能が漏れていたという事実が明らかになりつつある。付近の川や地下水などから放射性物質が検出されたところもあり、環境への影響が心配されている。そのため、核兵器生産工場、商業用原子力施設などの周辺住民に、白血病やがんなど、健康への影響が懸念されている。
3. 核兵器生産工場・商業用原子力施設の周辺住民への影響
 米厚生省は1990年9月14日、アメリカ国立衛生試験所(NIH)/国立がんセンター(NCI)が2年にわたり実施した核兵器生産工場・商業用原子力施設の周辺住民におけるがん死亡に関する調査の概要を報告した。それによると、原子力施設周辺の住民にがんによる死亡が増大している証拠は見いだせなかった、としている。
 国立がんセンターは原子力を持つ107の郡(調査郡)における、その施設の運転開始以前と開始以降におけるがん死亡率と、原子力施設を持たず、社会的要因・地理的条件の似ている292の郡(対照郡)のがん死亡率とを比較した。1950年から1984年までの各郡の死亡記録を用いて、調査郡においては90万件以上、対照郡においては180万件以上のがん死亡を16種類にわたって調査した。
 その調査結果によると、調査郡での死亡率と対照郡での死亡率にはあまり相違がみられなかった。国立がんセンターの放射線疫学科主任のジョン・ボイス博士は「現在(1990年9月)のデータからは、原子力施設の周辺での居住によって、がんによる死亡リスクが増加しているという信頼に足る証拠はない」と語った。
 しかし、ジョン・ボイス博士は、調査された郡の面積があまりにも大きくて、原子力施設周辺の限られた地域でのリスクを示すことはできない、と注意を喚起した。同博士は「この調査では影響がないということを証明することはできない」と述べ、「しかし、原子力施設を持つ郡で、放射線汚染のためにがんによる追加リスクが仮に存在するにしてもそのリスクはあまりに小さくて、われわれが使用した手法では検出することはできない」と語った。
4.軍用原子力施設での放射能汚染と対策
4.1 ハンフォード原子力施設での放射能汚染と影響(ワシントン州)
 1944年から47年にかけて、長崎に投下された原子力爆弾の原料のプルトニウムを生産していたワシントン州ハンフォード原子力施設(核兵器生産工場)で、大量の放射性物質が大気中に放出されていたことが1990年7月、明るみに出た。DOEの委嘱でバッテル研究所が調査したところによると、その放射能放出の影響で風下の住民27万人の内およそ1万5千人が33ラド以上の高い放射線を浴び、さらに付近の住民は汚染された牧草を食べた乳牛を通じてかなりの放射線を浴びていた。中には2,900ラドの放射線を浴びた子供もいるといわれている。
 このときに放出された放射性物質は半減期の短いヨウ素131だったので、現在の汚染はそれほど大したことはないらしいが、ソ連・チェルノブイリ原発事故以上の被ばくをした人も多いといわれている。実際にがんなどの発生率は高く、住民の間では健康への影響が強く心配されている。
 しかし、様々な調査から、白血病、悪性腫瘍などの発生率やがんなどによる死亡率の高さと、ハンフォード原子力施設からの放射能汚染との間には、はっきりとした因果関係を認めることができない、という結論がだされている。
4.2 サバンナリバー(サウスキャロライナ州)
 環境修復プログラムを実施した結果、2001年現在、515カ所の廃棄物サイトの存在が確認されており、その内277カ所が閉鎖済みか、修復中である。汚染面積500エーカーの内、340エーカーの浄化が完了済みか実施中である。また地下汚染している11エーカーの内、8エーカーで汚染した水の処理が進められている。
 現在の問題点として次の4項目をあげることが出来る。
(1) 浸透池(砂や砂礫などを利用し、ろ過して排出する方式):原子炉および化学分離プラントで使用していた浸透池は、油、各種の放射性各種(特にトリチウム)を含んでいる。
(2) 地下水の溶剤汚染:北西端の管理エリアおよび材料製造エリア(Mエリア)と実験エリアが特にひどく、この地域には油、ガソリン、グリース、スラッジもある。また、沈殿池へ廃棄された酸、アルカリ、金属を含む脱脂溶剤が問題となっている。
(3) ゴミ埋設場、瓦礫ピット、化学薬品、金属、殺虫剤の処分ピットが問題となっている。
(4) 低レベル放射性廃棄物埋設場が問題となっている。今までは、トラックによる泥運び出しによる処理から化学プラントによる処理へと移行してきたが、今後は自然の浄化プロセスによる受動的な処理に移行している。
4.3 オークリッジ・ガス拡散濃縮工場Y-12プラント(テネシー州)
 オークリッジ・ガス拡散濃縮工場は、マンハッタン計画の一環として1943年に建設され、核兵器用濃縮ウランを生産した。このプラントは、土壌と堆積物の撤去に重点をおいた短期的な修復で、制限付きで工業利用できる状態にまで修復する予定である。
4.4 パデューカ・ガス拡散濃縮工場(ケンタッキー州)
 1988年、ケンタッキー州マッククラケン郡の保健部によって、サイト近くの個人用井戸の地下水が高α・β放射線で汚染しているのが発見された。その後DOEが調べた結果、汚染は広範囲に広がっていることが判明した。DOEは、これら汚染物質を回収するため地下水ポンプ処理システムを2カ所に設置し、7億500万ガロン以上の水を処理した。汚染地区の井戸水を使用している104世帯の住民や企業に、水道を提供している。
 DOEは2001年9月までに解決策をケンタッキー州の環境保護局と環境保護庁省(EPA)に提供することになった。処理案として、直接加熱、酸化処理による蒸気抽出、透過性処理ゾーンおよび原位置オゾン処理によって、サイト全域の汚染源を少なくし、かつ完全な汚染地帯での処理システムで処理する。これによる場合は、汚染を完全に除去するまでに15年はかかる。
4.5 フェルナルド金属ウラン製造施設(オハイオ州)
 フェルナルド金属ウラン製造施設は、ウラン鉱石のサンプリングとウラン鉱石を精錬する施設で、1950年代初頭(1952年頃)から操業を開始し、1989年7月10日に操業を停止するまで約37年間にわたり運転した。この製造施設の面積は1050エーカー(4.25平方km)で、米国で最大規模の飲料水源の一つであるグレイトマイアミ帯水層の上に位置しており、帯水層のうち約220エーカー(0.89平方km)がウランで汚染されており、汚染濃度は20ppb以上である。
 フェルナルドは国家優先度リストに載っているサイトで、1991年10月以降、RCRAとCERCLA(注1)の二法の下で廃棄物の管理と地下水の浄化を実施することになっている。なお、第1目標は、地下水のウラン濃度を環境保護庁の健康保護濃度である20ppb未満に下げることである。「ポンプおよび処理」技術(最大4,000ガロン/分のポンプ稼働による25カ所の抽出井戸システム)によって、2023年までに帯水層を回復させるとしている。
 地下モデリング予測解析によると、再注入を行うことで、帯水層の修復に必要な時間は、約7年間短縮することが示された。またDOEの他のサイトでの修復効果とこの再注入方式の組み合わせによるフェルナルドの帯水層の修復は、当初の計画より17年早く完了できると予測されている。

(注1)RCRA(Resource Conservation and Recovery Act、資源保護回復法)およびCERCLA(Comprehensive Environmental Response, Compensation and Liability Act、包括的環境対処・補償・責任法)は、米国環境保護庁(EPA)による連邦法である。
<関連タイトル>
アメリカの再処理施設 (04-07-03-11)
軍用炉の廃止措置 (05-02-04-02)
アメリカのPA動向 (14-04-01-07)
マンハッタン計画 (16-03-01-09)

<参考文献>
(1) G.ゾーベット:月刊日経サイエンス 別冊119(核と戦争の20世紀)、迷走するハンフォードの核廃棄物処理、(1997.6.1)、p.52-61
(2) 澤田承三:「土壌・地下水汚染対策の実際と原子力施設等に於ける環境修復事例:規制及び技術動向と具体例的対策を中心として」、講演−3 米国DOEの環境管理プログラムと環境修復事例、日本原子力情報センター セミナー資料(2001年2月9日開催)、p.82,83,100,102,108,110-112(原典:ANS(米国原子力学会)のRadwaste Solutions, September/October 2000)
(3) The New World 1939/1946,A History of the United States Atomic Energy Commission,Vol.1,Univ. California Press, p.222-226,302-310(1990)
(4) T.B.Cochran,W.M.Arkin,R.S.Norris,M.M.Hoenig : Nuclear Weapons Databook Vol.2,U.S. Nuclear Warhead Production,Natural Resources Defence Council Inc.,p.58-61(1987)
(5) T.B.Cochran,W. M. Arkin,R. S. Norris,M. M. Hoenig:Nuclear Weapons Databook Vol.3,U. S. Nuclear Warhead Facility Profiles, Natural Resources Defence Council Inc.,p.13-22, 92-99(1987)
(6) 日本原子力産業会議:諸外国における原子力発電開発の動向、(1990年10月)
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